[日本語]
カタカナ語の氾濫と「日本語基本法」の提案
カタカナ語の氾濫と「日本語基本法」の提案
現在の日本語はカタカナ語の氾濫により「漢字文化圏に属する」という属性のほかに「英語文化圏にも属する」という特性まで獲得しかねない勢いである。
現在多くの外来語が日本語と並存している状況にある。道路、ロード、住所、アドレス、紙、ペーパー、歌、ソング、板、ボード、店、ショップ、挑戦、チャレンジ、地域、エリア、枠、フレーム、黄色、イエロー、子供、チルドレン、手、ハンド、学校、スクール、誤り、エラーなどなど。これは対応する日本語があるのに英語が使われてきた結果である。この並存する二つの言葉をどのように使うかについて日本語を優先するという原則はなくただ自然にまかされているように見える。その結果、職業安定所は英語風の「ハローワーク」といわれ、東京青山会館は欧風の「フロラシオン青山」に変わった。ストリートチルドレン、オープニングセレモニー、ドメスチックバイオレンスのような合成語も当たり前に使われている。「平和へのメッセージ from 広島」や「The 漱石」のように前置詞や定冠詞まで日本語の中で多用されている。こういう英語の氾濫の背景で多くの日本語の単語や、日本語的表現が消滅していることは想像に難くない。
ほとんどの外来語は大和言葉と漢語からなる日本語の訳を考えることができる。しかしながら現在では日本語で表す努力は放棄され、新しい単語は英語をカタカナ表記した形で世に出ることが多い。
最近の米国映画の題名はカタカナ表記のままで日本語に直さないのが普通である。英語をカタカナ表記しただけで日本語に訳したような錯覚に陥るほどわれわれは英語に親しんでいる。こういう中で意味のわからないカタカナ語にも日常的に直面させられている。日本人はわからないカタカナ語があっても意味を質すことをしないでわからないまま放置している場合が多い。わからないカタカナ語が氾濫すれば、人の話が理解できない場合が多くなる。その結果、日本人が相互に十分な意思の疎通ができないということになり、「日本人は日本語がよくわからない」、或いは「日本人は教育水準が低い」と評価される原因にもなる。
いろいろなところで日本は文化国家であることを標榜しているが日本文化の核である日本語はまったく大事には扱われていない。たとえば科学技術に関する話題が全て英語に由来する技術用語を用いて説明されれば一般の日本人は科学技術とは英米が作ったもので、我々にはわからないものだと考えないであろうか。科学技術をすべてわかりやすい日本語で説明できることは今後科学技術に生きていこうと考えている日本にとって重要なことだがそういう方向への努力は計られていない。ロケット打ち上げ失敗や臨界事故などの相次ぐ科学技術上の不祥事も他人の言葉で科学技術を語ることと関係していないだろうか。
日本文化を正しく発展させ、日本国を安泰ならしめるために以下の様な「日本語基本法」を提案したい:
1. 日本語は我々の文化と伝統、社会と生活、或いは教育と科学と技術を支える基盤であり、わかりやすく、機能的で、整合が取れていなければならない
2. 日本人は正しい日本語を話すように努め、日本語による表現能力を磨かなければならない
3. 英語をカタカナ表記したものは暫定的な意味で使用を認め、最終的には日本語に置き換えるべきものとする
4. 専門家には英語と日本語の両方を知ることを義務付け、専門的な場では英語を使うことを認めるが一般の日本人を対象とする場では日本語を使うことを義務付ける
などの原則が必要である。「日本語は世界遺産であり、人類のために残し続けなければならない」という視点もどこかには入れていい。このような原則的な対応が取られてもカタカナ語は使われ、外来語の流入も続くであろう。しかしこのような「日本語基本法」が出来れば言葉の意味を一つひとつ確認しながら丁寧に使うようになり、日本人の全てが使い慣れた言葉による足が地に付いた会話や議論が行われるようになるだろう。他人が与えた問題を他人の言葉を使って考えるという状態から脱して、自分の問題を自分の言葉を使って自分で解決していく、真の文化国家日本が再生するのではないだろうか。
M.S.
2005年10月29日 | Permalink | コメント(43) | Trackback(0) |
[日本語]
国立国語研究所について
国立国語研究所はこれまで「外来語」の言い換え提案を3回にわたって行ってきた。これまで提案された言い換え語の数は200程度でカタカナ語の洪水に対して何らかの効果があるのか疑問を感ずる。現在の日本語の状況は日本国がこれまで言われていた漢字文化圏に属するという属性のほかに英語文化圏にも属するという属性まで獲得しかねない大きな変化のさなかにある。国立国語研究所はカタカナ語について「カタカナ語は長くなり、短縮するとわからなくなるから言い換えが必要である」と説明している。私の考えでは「カタカナ語」は長くなるから言いかえが必要なのではない。日本語でないから日本語に言い換えることが必要になるのである。国立国語研究所は提案の中ではどれぐらい定着しているかを問題にしている。これは定着していたら使っていいという考えかもしれないが問題はそんな簡単ではないように見える。無数のカタカナ語が定着しないまま使われていて、その結果、一部に定着するカタカナ語がでてくるのである。例えば「黒板」という語の代わりに「ブラックボード」を使う人は多い。誰でも理解でき、定着しているという人も多いと思われる。「ブラックボード」は使っていいとすれば「黒板」の立場はどうなるのであろうか。この場合「黒板」の方を使うべきではないだろうか。国立国語研究所には外来語より日本語を優先するという当然の姿勢が欠けている。
現在多くの外来語が日本語と並存している状況にある。道路、ロード、住所、アドレス、白書、ホワイトペーパー、歌、ソング、板、ボード、黄色、イエロー、顔、ファイス、手、ハンド、学校、スクールなどなど。これは対応する日本語がないから英語が使われてきたのではなく、対応する日本語があるのに英語が使われてきた結果である。われわれは「英語をカタカナ表記すれば日本語になる」と考えてないだろうか。 定着しているかどうかなど考えずに英語だから使っていいと考えていないであろうか。 カタカナ語の使用のされ方をみるとそう思わざるを得ない。その結果多くの英語が日本語と並列に存在し、いくつかは既に使われなくなり、いずれは多くの日本語が使われなくなるであろう。
日本のものをかえりみずに外国のものをありがたがるのは歴史認識だけではなくあらゆる分野にはびこっている。この意味から新しい歴史教科書をつくる会の運動は普遍的な重要な運動ということがわかる。
2004年11月02日 | Permalink | コメント(0) | Trackback(0) |
